何かおかしい。何かが足らない。いや何かが多い?どこか着ている服の丈が合っていないような気がする。
あなたはそういった感情に襲われたことがあるだろうか?
本作は自身のアイデンティティを探る、良質な横スクロールアクションゲームだ。最初に書いたことも含め、その魅力をあなたに伝えるため、筆を執る。
また、最初に、この作品はサウンドスコア、ボイスアクト、一部のシナリオを除いてアメリカと韓国の“ダブル”(混血)である人物が、たった一人でアートも含め作り上げた作品であることを、覚えていていただきたい。
物語の舞台となる地は「エリュシオン」といい、とある森で「ダスト」と呼びかける声がする。その声の主は「アーラの剣」という剣で、ダストとは主人公である青年のことだ。彼が目を覚ますと、そこには「フィジット」と名乗るおてんばな剣の守護者がおり、事情を聞くに剣が勝手に空へ飛んでいったのを追いかけてきたらしい。アーラの剣はダストを主人とし、フィジットは剣を自分たちの元へ戻さなければならないと言う。そして、ダストは一切の記憶を失っていると言う。どうやらアーラの剣は詳細な事情を知っているようだが、進むべき道を示唆するのみで核心には触れない。こうして三人は旅路を辿るのだった。
本作のアクションはとても爽快で、ボタンを連打しているだけで痛快なコンボが何度も発生し、画面に描かれるエフェクトはとても美しい。上級プレイヤーになれば更に痛快なアクションを決めることだって可能だ。
主なアクションは剣戟だが、半ば魔法めいた攻撃も使用できる。お供キャラのフィジットが炎などを放ち、そこにプレイヤーが剣でのアクションを加えると、ド派手な画面エフェクトと各種ダメージ効果が現れる仕組みだ。フィジットの扱いは、シューティングゲームで言うところの“オプション”的な役回りと言えばピンと来る人も居るだろう。
コンボ、連続攻撃のことを本作では「チェーン」と呼び、この数が多ければ多いほど敵から得られる経験値が増加するメカニクスを搭載している。経験値を溜めてレベルアップすると「スキルジェム」というものが増え、これを使って能力を増強することができる。ユニークなのは、各パラメータに最大4ポイント以上の差を付けられない、という仕組みで、偏ったパラメータ構成にはできないという点だろう。これはゲームバランスを考えた上での仕様だと思われ、"詰む"パラメータにならないような工夫の1つだ。この点から制作者の作り込みとクレバーさを感じる。
攻撃のタイプは大まかに二種類あり、通常攻撃と、英語で「砂嵐、砂塵嵐」を意味する「ダストストーム」というものが用意されている。後者は剣を回転させて範囲内の敵にダメージを与え続け、その間にコンボ数も溜まるという代物だ。しかしながら、ダストストームは使い続けると制御をみるみる間に失っていき、最終的には暴発して跳ね飛ばされてしまう。そして、その時点でチェーン失敗となるので使用タイミングには少々のコツが必要だ。とはいえ、全般的なアクションは直感的なプレイも許容しているので困ることもストレスが溜まることもない。本作はキーボード操作よりもコントローラー操作の方がしっくりくる作品でもあり、その理由の1つは連続攻撃中などに起こる振動機能が挙げられる。
また、前述したお供キャラクターのフィジットは遠隔の魔法スキルを放つことができ、その攻撃をダストストームで巻き込むと攻撃範囲が広がり大幅にコンボを稼げたりダメージを与えられたりする。
海外ゲームサイトのレビューではやたらと議論された“ケモノキャラ”については、おそらく日本人なら抵抗を覚える人は少ないだろう。キャラクターのバストアップイメージは、いかにもカートゥーンといった感じで選り好みが生まれるだろうが、それを跳ね除ける素晴らしいプレイフィールを備えた作品だ。もっとも、主人公ダストのビジュアルイメージはとても優れている。カラーやシェイプもプレイヤーの感情移入を妨げず、かといって物語の傍観者でもない、とても素晴らしい外面と内面のデザインだ。
タイトルロゴに含まれるハングル文字だが、開発者であるDean Dodrill氏はアメリカで生まれ育ったものの、血の半分は韓国人であるというところに起因している。つまり、ダブル(敢えてハーフという呼称はせず)なのだ。本作の物語は記憶を失った主人公ダストのアイデンティティとルーツを探る旅である。実際に開発者のブログやインタビューを読むとそのような記述がある。
再度言うが、主人公ダストは記憶を失っている。
オフィシャルサイトに行くと
"April 2, 2002 The Official Elysian Tail website goes live!"
という一文がある。これはつまり、本作が“塵(Dust)”の状態から長き年月が費やされて発表されたということなのだ。実際、発売日が決定されてからも何度も延期が繰り返された。
(実際のリリースはXbox Live Arcadeにて2012年に行われた。また、ゲーム開発の着手は2009年より開始されている)
そして、かつて塵だったコンセプトは時の風化にも負けず舞い上がり、我々の前に素晴らしいヴィジョンを描いてみせ、そして新たな塵へと還っていった。
あなたが本作をプレイするときに、二つの自分を持つことへ想像を巡らせながらプレイしてみて欲しい。
何かおかしい。何かが足らない。いや何かが多い?どこか着ている服の丈が合っていないような気がする。
あなたはそういった感情に襲われたことがあるだろうか。
あなたは本作により、アイデンティティの意味を知る。そして重ね着をやめ、パンパンに膨らんだポケットから要らないものを拾い上げ、一つだけをしまう。
それは、意思が自身を成り立たせる、ということだ。
塵から生まれた自身はやがて塵に還るが、その過程において新たな塵を生み、あるいは育み、風を巻き起こして去って行く。おそらくは私自身も、そして、あなた自身もそうなのだ。
本作が塵から生まれ、プレイヤーの心に何かを育み、インディーゲームの世界に風を巻き起こしたように。
塵の軌跡は巻き起こった風で描かれる。その風を生むのは人のあり方、生きることの全てだ。その軌跡は一人一人が持ち、また、異なり、それ故に美しい。
あなたにも等しく風が吹くように祈りを捧げたい。