苦悩することが好きだ。何故なら常に問題の中に居ることで研ぎ澄まされる音楽性(私は音楽業と執筆業の二輪で生計を立てている)や文章が立ち現れるからだ。
だがしかし、『Last Day of June』における苦悩は少し違う。最愛の人を亡くし、それを取り戻そうという苦悩だ。
本稿では基本的なプレイフィールに加え、喪失することをテーマに綴ろうと思う。
本作は小さな村に住むカールとジューンという二人の愛し合うカップルが主役だ。このうち、ジューンは交通事故で亡くなってしまい、カールは半身不随となるのである。明言されていないがプレイから読み取るにジューンは絵描きであるのだが、ある夜、彼女が残していった絵が謎めいた光に包まれる。その絵にインタラクトすると、絵に描かれた人物に憑依して彼らの行動を左右することができる。これよって事故を未然に防ぐのだ。
様々な人物に憑依して彼らの行動を変えることで、別の人物では障害になっていたものが取り払われる、といった至ってシンプルなパズルが用意されている。例えば、三番目のキャラクターの障害を取り除くために、一番目の人物から取り除いた障害を敢えて再現して戻す、といった具合にザッピングしつつ進行する。そして最後に事故を止めるのだ。
本作における、カールとジューンとの間で交わされる愛情表現は極めてイノセントだ。たとえば湖畔でデートすること自体イノセントだが、カールは彼女に野に生えている花をプレゼントする。
前半部分、事故が起こる前、カールへのプレゼントを何処に置いたら一番喜んでもらえるか、とジューンが考えを巡らせるシーンだって、ある種の美しさを感じる。
カールはジューンを亡くす。それは精神の底が抜けるような思いをするはずで、あらゆる手を使ってジューンの事故を防ごうとする。この場面においてカールが如何に必死で絶望を感じているのかは、イノセントな愛情表現をきちんと行っていたからこそ伝わるものなのだ。
かけがえのない人を失ったときの目眩というのは、世界から切り離されるような感覚に陥る。食事の味もしない。殆ど生きている死体のような感性で暮らすこととなる。カールはそうならないため、必死にもがく。この姿には胸を打たれる。
本作はストーリーにおいて、最後にとんでもないツイストを仕掛けてある。とんでもない、といってもド派手なものではなく、静寂と共に衝撃がやってくる、そういった類のものだ。途中途中、ザッピングシステムで人物の行動を変えるシーケンスは正直に言って面倒くささが存在している。だが、エンディングで全て帳消しになる、そのくらいのエンディングを本作は持っている。
本作のプレイフィールは、キーボード+マウスでやるかコントローラーでやるかで随分変わる。一応どちらも遊びやすいよう、という調整はされている。コントローラーにおいては移動が直感に行え、キーボード+マウスであれば視点変更が随分楽になるという違いがある。
個々人に憑依してザッピングを繰り返すパートは概ね“パズルパート”と呼べるくらいにはパズルっぽさがある。この点において面倒さを感じるプレイヤーもいるかも知れない。何度も試さなければいけないのにスキップ不可能な場面がある、それは本作の評価を下げる一因だろう。
本作のテーマは愛と喪失だ。喪失が身に起こると、まるで半身、ひょっとしたら全身が引きちぎられてしまうような感覚に陥る。そこからカムバックするには劇的なドラマが必要なのではない。長い時間をかけて、ゆっくりと癒やされていくのだ。
愛する者の死という形でなくともこういった喪失は誰の身にも起こる。その哀傷を本作は表現している。
今、まさにあなたが喪失に囚われているのであれば、本作が何かの鍵になるかも知れない。
既に喪失を経験しているあなたは、それを思い出して“あの頃”に思いを馳せるだろうし、それを乗り越えるか、やり過ごしたことによって得られた誇りを感じるはずだし共感するだろう。
私も特別なものではない瑕疵を持つ。そして本作をプレイした私は、ゲームというメディアを通じ、一つの兆しを得た。
優れたドラマは人の心を変えうるし、その一つが本作であり、そういった表現を行えるのが現代ゲームの強さなのだ。
また、未だ喪失を知らぬあなたは、やがて喪失を覚えたとき、本作を思い出して欲しい。
本作は秋が似合うように思う。ゆっくりと生命の躍動感が控えめになっていくそのさなか。
そんな季節感にフィットする。
今、秋の音色がする。それは物憂げな旋律だ。秋の音色は人の思索を促してくれる。
人をナイーブな感傷に導く。自省が進む。
そんな今だからこそ、本作はプレイする価値がある。
愛と喪失を知る、その思いの両面を本作は内包しているのだから。